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UEKING ROOM

KOJI UEKI HISTORY

1955年
2月20日植木家の次男として、新潟県柏崎市に生まれる

1967年 12歳
柏崎市立新道小学校卒業

1970年 15歳
柏崎市立第四中学校卒業(野球部)

1973年 18歳
新潟県立柏崎高等学校卒業(サッカー部)
体育祭のバックボード「色別応援パネル画」を手がけ首位
4月 国立新潟大学教育学部美術科 入学と同時に寮生活

半身・等身の裸婦像を主に制作
1976年上越市美術展覧会 文化協会賞受賞

1977年 22歳
中学校教諭1級普通免許及び高等学校教諭2級普通免許取得
3月 同上大学卒業
卒論 「現代彫塑に関する考察、ブランクーシ」
卒制 裸婦彫像・実在(木彫)
4月 神奈川県立茅ケ崎高等学校着任 美術部顧問(離任まで)
茅ケ崎市若松町のアパートに住む
横浜彫塑研究会に所属し、アトリエ(横浜市民ギャラリーの地下)で制作活動
平塚市東中原のアパートに引越し
アキレス腱断裂治療のため平塚共済病院に入院

1978年 23歳
第29回茅高祭ポスター・大パネル制作

1979年 24歳
2年生副担任
第30回茅高祭ポスター・スーパーピーマン大アーチ制作
離任までポスターデザイン制作、大パネル画(美術部と有志)指導

1980年 25歳
1年2組担任
茅高祭では8mm映画「HARD KILLER」製作、自宅がロケに使われる

1981年 26歳
2年10組担任(男子クラス)
茅高祭では「お化け迷路」を企画

1982年 27歳
3年12組担任(男子クラス)
茅高祭では「夏」をテーマにした作品展を企画

1983年 28歳
New York 遊学
「THE ART STUDENTS LEAGUE OF NEW YORK」で学ぶ
学校中庭のアスファルトに高層ビル街俯瞰図の地上画制作を指導

1984年 29歳
同僚や卒業生とバンド活動
藤沢のライブハウス等で公演
横浜彫塑研究会アトリエでの制作活動を退き、
モデルデッサン会のみ参加

1985年 30歳
美術部・軽音楽部顧問兼任

1986年 31歳
3月 神奈川県立茅ケ崎高等学校離任
4月 神奈川県立横浜日野高等学校着任
1年生副担任・美術部顧問
日野高祭ポスター制作、看板パネル画指導
(有)阿部施工のロゴ・ステッカーを制作
10月 茅ケ崎市矢畑の新築1LDKマンション購入

1987年 32歳
1年2組担任 日野高祭では「BAD BOYS & GIRLS」を企画
(株)藤澤のスカーフデザイン画を受注制作
企画担当者(後の結婚相手)が転職する1994年まで発注を受けた

1988年 33歳
2年4組担任 日野高祭では「KEN’S CLUB」を企画
美術部兼任アメリカンフットボール部顧問離任まで(チームステッカー制作)
選択美術3年生と美術部員によるプール外壁画を指導(泳ぐクジラ)
港南警察署からの依頼「飲酒運転追放」パネル画を美術部で制作
PTA研修機関紙「黎明」13〜23号表紙画・ミニコラム(1997年まで)書道科の國松先生の題字とのコラボレーション

1989年 34歳
3年7組担任
美術・アメフト顧問に加えバスケット・ハンドボール部も兼任
6月 結婚

1990年 35歳
「横浜日野PTA会報」64〜70号(1992年まで)

1991年 36歳
新大退官記念の恩師渡辺利馗彫刻展に併催された彫塑科展に出展

1992年 37歳
3月 長女誕生
同マンション6階3LDKに引越し
2年生副担任(女子クラス)
選択美術3年生が描いたパネル画を2階廊下に設置
(キリン・象・チンパンジーなど)

1993年 38歳
1年4組担任 日野高祭では「ペンギン村」を企画
選択美術3年生による屋外トイレの外壁画を指導
(遊んでいる子どもたち)
(株)ワールド「Blesse Blige」(婦人アパレル)展示会場に
彫塑作品をコラボレーション展示

1994年 39歳
横浜美術館 市民のアトリエ 彫塑講座講師
2年4組担任
同じく矢畑近隣の分譲マンション8階3LDKに引越し
港南区制25周年記念誌「ふるさと港南の昔ばなし50話」の
ための表紙画とカットの制作依頼を受け美術部を指導
購買部前の壁画指導(熱帯の動植物)

1995年 40歳
3年5組担任
球技大会男子バレー優勝・サッカー準優勝/文化祭「もちだまき」

1996年 41歳
横浜美術館 市民のアトリエ 制作公開相談会 アドバイザー
(財)横浜市道路建設事業団から環状2号線フェンスの絵画パネル制作依頼を受け、54点中14点を日野高にて指導担当(テーマは道)

1997年 42歳
11月 次女誕生
プレハブ舎にパネル壁画制作指導(パフィー)

1998年 43歳
3月 神奈川県立横浜日野高等学校離任
4月 神奈川県立藤沢西高等学校着任 美術部顧問
美術室廊下壁面から壁画指導始める
1996年のプラスマイナスギャラリー企画で制作された「作家紹介ビデオ」が
東京都現代美術美術館のビデオライブラリーにコレクションされる

1999年 44歳
1年B組副担任 美術部・音楽部・ラグビー部顧問兼任
プール外壁・スタンド・体育館外壁・外トイレブロック壁・に壁画制作指導

2000年 45歳
2年C組副担任  美術部・ラグビー部顧問
西高大壁画制作指導(3・4階部完成)
アキレス腱断裂治療のため茅ヶ崎市民病院に入院

2001年 46歳
3年E組担任
西高祭文化大賞3E「那覇ナハ」
西高祭文化部委員会部門銀賞美術部
西高大壁画制作指導(2階部完成)
藤沢市城南の分譲マンション11階4LDKに引越し

2002年 47歳
1年B組担任
西高祭文化大賞 金賞1B「マシソヨ亭」
西高祭文化大賞美術部「イクウカン」
地球一周倶楽部 ロゴ・ステッカーを制作

2003年 48歳
2年D組担任
美術部・女子ハンドボール部・ラグビー部顧問兼任
職員集団検診の再検査にて組織培養結果、食道癌が発覚
9月県立がんセンター・国立がんセンターの診断で
5年生存率30%という告知を受け、北里大学病院での放射線治療と化学療法治療を選択
入院・自宅療養の休職期間を1990年横浜日野高卒生が担当

2004年 49歳
3年C・D組副担任
1月より復職するが治療の為再び休職
臨時任用教員:1981年茅ケ崎高卒生
臨時任用教員:1989年横浜日野高卒生

2005年 50歳
1月復職
妻交通事故で入院中、柏崎の父母に2週間家事手伝いを頼む
2月新作制作開始
卒業学年団(29期)職員で3月27〜29日沖縄旅行
柏崎の同級生「あした会」有志と足柄へ旅行
2005年度より3年生の選択授業に「ウォールペインティング」科設立
4月20日の授業が最後となり、翌日緊急入院
4月29日 北里大学病院にて死去

 

 

自己紹介

私は、茅ヶ崎と藤沢に住んでいましたが出身は新潟です。まったく美術とは無縁の環境の中で育ちまして、中・高は運動部に所属、高校を卒業したら、就職するつもりでおりました。ところが急に3年の秋に大学に行ってもいいということになり、急遽新潟の大学の美術をやれる学部にもぐりこんだという訳です。美術は好きでしたが、その方面の大学に行くなどということは一度も考えたことはありませんでした。大学は田舎の高田という雪ふかい所でしたので、ノンビリしていました。そこで、いい先生と先輩にめぐり会い生まれて初めて塑造なるものを経験することになります。卒業後は、神奈川に出てきまして、それからずっと、まあ気がついてみたら、20数年も彫刻をやっていたという訳です。最初はグループでアトリエを借りモデルさんを頼んで制作をしていましたが、個人制作に転向しました。そして、いろんな人に作品を見てもらいたいという一心で、銀座や横浜で定期的に個展をひらくようになりました。学生の頃から、もちろん今もそうですが絵が大好きで描いていたものですから、皆が私のことを彫刻にむいていないと思っていたみたいですが、仲間の中で一番長く彫刻を続けているかもしれません。私などは、若くして世に出ることができなかった人間ですから、これはもう、長く続けるしかない。続けることが才能だと今は信じています。

では、少し作品制作についてお話をさせていただきます。何もないところ、まっさらな紙に自分が手を加えることによって作品が生れる、それも世界でたった1つの自分の作品が生れることの素晴らしさ、それは驚きでも感動でもあります。ある物・風景・人を見て、おもしろいなぁ・きれいだなぁ・愛しいなぁ、そのような感動や想いがすべての原動力だと思っています。感動の目で物を見て制作する。すると今日はここまでできたという作品に、そして自分にまた感動する。その繰り返しだと思うのです。自分が今度はどんなものをつくるのか、自分に期待するなんて楽しいじゃないですか。

けっしてテクニックではないと思っています。テクニックだけのキレイなだけで空虚な作品を、街頭や公園で見かけませんか。キレイなだけの作品と、いい作品の違いを見極めることができますか。作品とはその作者が、どう生きてきたかということが問われる訳です。ですから、美術作品はすべて自画像だということが言えるでしょう。

書籍になっている「―の描き方」「―のつくり方」などというマニュアルはないと思っていただきたい。むしろ、多くの作品に出会い感動し、影響をうけることを恐れないことです。私は絵にしても、彫刻にしても、大好きな作家がたくさんいますし、影響も随分受けました。それでもいつか親ばなれするのですから。

矢野顕子という音楽家が「自分の聴きたい曲を書く」とインタビューで言っていましたが、私もそれと同じで、自分が見たいと思う作品をつくってきたつもりです。

 

 

 

作家紹介

 

さまざまな作品の数だけ、異なる制作過程があります。

現代美術の作品の中には、作家の手による制作が

ほとんどないといったものもあります。

 

植木孝二の作品は一見、古典的スタイルの

彫刻作品ですが、現代的で自由な感覚によって

創造されます。

木彫を思わせる作品は、FRP(繊維強化プラスチック)を使い、

人工の漆を幾重にも塗っては磨き上げる

ユニークな手法で制作されます。

 

すべてが作家の手による長い制作期間…

「だからこそ、作品が完成したときの嬉しさは

ひとしおであり、とても言葉で伝えきれるものではない」

と植木は語ります。

 

ここで、作家の制作風景を紹介します。

さまざまな制作過程における、作家の表情、

そして、発言を通して作品の持つ魅力と同様に

作家、植木孝二の魅力をお伝えします。

 

 

 

過去の作品が所狭しと並ぶ、美術室準備室。

大小さまざまな作品が埃にまみれて静かに眠っている。今までに制作された半数近くの作品がせまい空間に一同に会している。一つ一つの作品の表情をつぶさに眺めていくと、作風の変化が見てとれる。まさにここは作家の歴史が詰まった空間であり、その制作活動の証でもある。

 

植木氏の制作は、奥さんや娘さんや知人をモデルにしたデッサンから始まります。そのデッサンを基に粘土で作品のかたちをつくり始めます。

 

粘土を適当な大きさにちぎり、肉付けを繰り返す。次第に作品のかたちが見え始める。細かい粘土でつくられた作品は、表面はごてごてしているがその完成像は、おぼろげに想像できる。

 

Q、制作活動について…

「ニューヨークに遊学してパステル画を描きまくってみたり、彫刻以外にも、油絵、版画、何でもやっていた様な気がします。今、制作している様々な胸像や全身像は、これらの制作の上にあるというか、ひとつひとつの制作の積み重ねによって今に至っていると思います。」

 

ある評論家は「現在の彫刻作品は、平面の影響を強く受けている」と植木氏に語ったそうです。氏が影響を受けた作家は、エゴン・シーレ。氏の作品のサインには、「KOJI  EGON UEKI」と記されています。

 

母子像のフォルムは、ほぼ完成にちかづき細部の制作に集中する。母子像の顔の表情を作り始める。母の顔、娘の顔、その微妙な表情が作家の手によって作品に伝わる。デッサンで描かれた母子像が作家の手によってまもなく、かたちづくられる。

 

Q、モデリングについて…

「作品の基本とも言えるモデリングには、時間をかけます。どこで終わりにするかまた、いつ終わりがくるのか私にもわからないのですが、突然、それが見えるというか訪れるんです。完成の瞬間をこうしてつくり続ける事で待っているのかも知れません。」

 

植木氏の家族像、母子像、そして女性像の彫刻作品は、一枚のデッサンから生れます。何枚もの紙に描かれたさまざまな女性の姿は、植木氏の理想とする女性像と思われます。また、彼自身の家族をモチーフにしたものです。

 

モデリングが終わると石膏で作品の型を取ります。

 

石膏の強度を増すために、補強材となる麻紐を石膏の中に埋め込みながら粘土の母子像を覆っていきます。

 

粘土に差し込んだアルミの板を丁寧に抜き始める。

 

石膏の型は、粘土でつくられた作品の原型を見事に写し取っている。

 

粘土でつくられた作品の原型は至るところが崩れ、もはや基の姿をとどめていない

 

Q、モチーフについて…

「作品のモチーフは、日々生活をともにしている妻と娘にかわりつつあります。私がまだ若かった頃と比べ肩の力が抜けた現在、日常のありふれた風景の何気ない一瞬をとらえた作品が多くなっています。それは、私が探していた作品のモチーフが実は一番身近なところにあったのだと気がついたからなのかも知れません。」

 

植木氏の作品のほとんどは、当時氏が勤務する高校の美術教員控え室に保管されていました。さまざまな作品が眠る部屋。制作初期から最近の作品まで、作家の活動の記録がこの部屋に詰まっています。

 

石膏で型を取り終わるとFRP(繊維強化プラスチック)を流し込み、再び型を取ります。この工程によって粘土でつくった作品の表情が再びよみがえる事になります。

「ここからの工程は、職人的な世界」と植木氏は語ります。

木彫を思わせる作品が、実はFRP(繊維強化プラスチック)でつくられる。

 

樹脂の乾きを待って石膏の型から作品をはずします。

大胆に石膏をはがし始める、作家。それは、剥がすというより表面の石膏を削り取っていく感じです。細かく砕けた石膏の跡に、樹脂でできた作品が現れる。長い工程を経て、粘土でモデリングされた表情が再び樹脂にかたちを変えて現れる。

 

作品の持つ独特の色彩は、人工漆を何度も塗っては、磨きだすといった工程によって生れます。豊かな色彩の数だけ制作の工程が増えます。黒い漆そして、さまざまな色漆が作品の表情をより豊かにしています。

 

色漆によってつくり出される、作品の表情は漆という素材の持つ性質上長い時間がかかります。制作期間の半分がこの工程を占める事もあります。色を足しては、乾くのを待ちそして表面が平らに成るまで磨きだす、色の数だけこの工程を繰り返します。

 

Q、制作について…

「漆を塗り込んでは磨きだし、磨きだしては塗り込むという工程を、作品にもよるが、1~2カ月位続けます。作家によっては、モデリングが終わったら職人まかせという人もいるが、それに比べて私の場合は、そのあとがまた、ひと仕事ということになる。だからこそ、作品が完成した時の嬉しさはひとしおであり、とても言葉で表現しきれない。」

 

最後の磨きだしが終わり、作品が完成する。

長い過程を経て、今ここにひとつの作品が誕生する。

 

しかし、次なる制作が待っている。

終わることのない制作活動の一場面。

休む事なく次なる制作が始まる…

 

*作家紹介は1996年 PLUS MINUS GALLERYの個展用映像資料より構成しました。